17歳の少年が全米代表チーム相手に歴史的好投

1934年の11月20日、静岡、草薙球場は素晴らしい晩秋の秋晴れで、雪化粧をした富士山がくっきり見えたという。この年に来日した、全米オールスターチームは、圧倒的な力をみせ、18戦全勝。

特に、ベーブ・ルース、ルー・ゲーリック、ジミー・フォックスのクリーンアップは、破壊力抜群。チーム打率.324厘、本塁打48本の猛打を披露して、日本のファンを唸らせた。

しかし、この圧倒的な全米チームを仰天させる投手が現れた。

沢村栄治、弱冠17歳。京都商業の5年生。今でいう高校2年生。もちろんプロ野球(職業野球)が創設する前である。

初回、先頭打者、マックネアを左飛、ゲーリンジャー、ベーブ・ルース、を連続三振に獲った。続く次の回も、ジミー・フォックスを3球三振、ルース、フォックスは共に、落差のある落ちるカーブで空を切らせた。ここまで打者5人に対して4三振。インディアンスの強打者エグレルは2塁ゴロ。3回も8番ヘイズ、9番ホワイトヘル、も三振。

ここまで、3回を終わって6三振を奪われた。まだ、序盤とはいえこの17歳の少年に対してアメリカベンチは、にわかに緊張した。

そして、4回にルースのセンター前ヒットが初めての走者となった。

一方の日本チームは、6回までに放ったヒットは2本で、がっぷり組んだ投手戦となった。

続く7回に日本はチャンスが訪れる。夫馬勇が四球を選ぶと、ボーク、更に久慈も四球で二死、1.3塁としたが、新富卯三郎の投手ゴロで逃した。

その裏、沢村がルースに対して、スローボールで投手ゴに討ち取った。この冷静さも素晴らしい。次がゲーリック、初球は速球でストライク、そして2球目は得意の落ちるカーブ(懸河のドロップと言われる)。しかし、ゲーリックはこの配給パターンを読んでいた。身体お少し、のけ反らせる様にボールをたたくと、白球は右翼スタンドに飛び込んだ。

惜しくも0―1のスコアで沢村は敗れたが、内容は3安打、1四球、9奪三振の大好投。

この後、沢村はこの年の暮に結成された巨人軍へ入団し、たちまちエースとなった。

泣きながら素振りをした衣笠祥雄

衣笠祥雄の若いころの失態

当時、広島の打撃コーチだった関根順三氏は合宿所に泊まっては若手選手の指導をしていた。

衣笠には毎晩数百回の素振りを課し、関根コーチ自身も深夜まで付き添っていた。

毎夜のマンツーマン指導の成果が出て衣笠はなんとかレギュラーに定着しかかっていた。

ある日の市民球場での試合後、『今夜ぐらいはいいだろ』と
衣笠は酒を飲みに出かけた。久し振りの外出で、つい時も忘れて飲み続け
したたかに酔っ払って合宿所に戻った時にはとっくに門限が過ぎていた。

衣笠が合宿所の玄関からそっと上がろうとしていると
浴衣姿の関根コーチがスーッと現れた。
「しまった。ドヤされる。」と衣笠は思ったが関根コーチはただ
『遅かったなサチオ、さぁ、今夜もバットを振ろうや』と
あの何とも言えない優しげな表情で衣笠にバットを差し出す。

真夜中の合宿所の玄関先でいつものとおり、ふたりきりでの素振り練習が始まった。
衣笠は酔いの中でバットを振りはじめたが意外にも関根コーチは門限や飲酒のことには一切ふれず
ただ淡々といつも通りの指導をするだけ。

衣笠の心にはよけいににこたえた。
「関根コーチとの素振りの約束を勝手に破ってしまった、少しくらい打てるようになって、いい気になっていた、レギュラー出場を当たり前と思い込み始めて油断していた」
弱い自分の情け無さ、関根コーチへの申し訳無さと有り難さで衣笠はそれから、ワンワン泣きながらバットを振り続けた。

景浦将の伝説の東京湾本塁打

広い甲子園、当時は今よりも両翼が18.28mも深く、昭和9年にベーブルースを中心とした全米オールスターチームが来た時もホームランが一本も出なかったが、景浦将は楽々とスタンドに打球を放り込んだ。重戦車のような体でスイングすると10本のうち4本は甲子園のスタンドに届いた。 “景浦将の伝説の東京湾本塁打” の続きを読む

四球のはずがホームラン

東京ドーム開場を翌年に控えた、1987年の10月18日の巨人―広島戦での出来事。

4点のリードをされた巨人が4回裏1死から吉村禎章がカウント2-1からの白武佳久投手の4球目を見送り2-2。ところがスコアボード表示は2-1のまま。

山本文男球審が首をかしげながら自分のインジケータを見ると、2-2になっている。 “四球のはずがホームラン” の続きを読む

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