球種はストレート、それにストレートと見分けがつかないくらい小さく曲がるスライダーとシュート。これまで多くの投手が登場しましたが「鉄腕」と呼ばれるのは稲尾和久を置いて他にいません。来る日も来る日もマウンドに立ち続けました。1961年には42勝14敗。チームの勝ち星の半分強をその右腕で挙げたのです。
猛者たちが打てない
1956年に西鉄ライオンズに入団した稲尾は、1年目に21勝を挙げて新人王に輝きました。入団当初は全くの無名でした。三原修監督は春のキャンプでバッティングピッチャーをやらせてみると、速いボールがコーナーに決まり、西鉄の強打者達がなかなか打てません。それではバッティングにならないと不満が出て、一気に、先輩打者から稲尾の評価が高まり1軍に登用されました。
シーズンが始まっても、しばらくは敗戦処理や勝負の行方が決まってからの登板が多かったのですが、先発投手の故障などから登板機会が増え、シーズン中盤から白星を重ね、終わってみると21勝6敗、防御率1位にもなって堂々と新人王に輝きました。
球種はストレートだけ?
2年目には、もうエースの風格があり、プロ野球記録となるシーズン20連勝を記録するなど35勝をあげ、投手のタイトルを総なめにし、MVPを獲得しました。
当時の稲尾は、カーブが投げられず、インコースにストレートを投げればシュートし、アウトコースに投げればスライドする、「割れるストレート」が武器でした。
スライダーとシュートを自由に放れることが出来たのは、3年目くらいからという。だからそれまではストレートだけで抑えていたことになります。
土壇場からの4連勝
その鉄腕ぶりを世に広く認めさせたのは1958年の日本シリーズ。
ゴールデン・ルーキー長嶋茂雄を擁して注目を集めた日本シリーズでは第1戦に先発をしましたが敗戦。第2戦の敗戦を挟んで、第3戦も敗れて3連敗を喫し、崖っぷちに立たされました。
それでも三原監督は稲尾との心中を選んだのです。
そして、雨で1日順延になったことがこのシリーズの運命を変えました。
雨が上がった第4戦、稲尾を先発に立てて勝利をつかむと、第5戦は4回からリリーフ。9回には日本シリーズ初となるサヨナラホームランを自ら放ちました。
そして、再び舞台を後楽園球場に移した第6戦、7戦と2日続けて先発して完投勝利。西鉄に3年連続の日本一をもたらしました。
7戦中6試合に登板し、3戦から5連投で4勝すべてを稲尾の手で勝利をもぎ取りました。地元新聞紙には「神様、仏様、稲尾様」の見出しが躍り、後世に語り継がれることとなります。
当時は、1人のスーパースターにすべてを託した起用が目立ち、1954年には中日の杉下茂が同じ西鉄を連投で下し日本一に、そして、1959年は南海が杉浦忠の4連騰で巨人を下しています。
年間42勝の大記録
稲尾は1961年も当時の日本記録の78試合に登板、スタルヒンに並んで史上最多となる42勝を挙げました。翌年も25勝、28勝と入団以来8年連続して20勝以上を挙げて25歳で200勝に到達。金田正一に次ぐ年少記録で「鉄腕」にふさわしい活躍をしました。
1964年は肩を痛めて、初めて勝ち星がなく終わり、徐々に稲尾酷使のツケが肩に及んできました。翌年には、カムバックして最優秀防御率のタイトルを獲得したものの、球威の衰えは隠せないものでした。
そして1969年に引退、翌年にはライオンズの監督に就任しましたが、黒い霧事件で主力が次々と失う不運。同情する声ありましたが、西鉄ライオンズの最後を看取る事しか出来ませんでした。