福本豊唯一のホームスチール

誰もが、「気で走る」という表現。歴代の盗塁王になった選手は不思議と脚力よりもメンタルが大事だと主張しています。それは塁間のトップアスリートだけが味わう、孤独なランナーのスリルなのでしょうか。

走る事を、「名人芸」から「芸術」にまで押し上げ、阪急球団は、福本豊の黄金の足に1億円の保険をかけました。実際の寸法よりも小さいて軽量な「カンガルー」の特注スパイクで「舞い」を演じました。

福本豊の盗塁へのこだわり

福本は、ホームスティールを好みませんでした。1972年に初めて生涯初の本塁盗塁を試みた時、入団してすでに4年が過ぎていました。本塁への盗塁には美学を持っていませんでした。何故なら1塁から2塁へこれこそ、盗塁の原点だと思っていたのです。2塁から3塁へは福本に言わせると「いつでも走れる」から帰って面白くないのだそうです。

あの鈍足の野村克也でさえ、ホームスティールは7度成功させているのです。

何故、ホームスティールをしないかというと「それが勝利に近づくもの」ではなくあまりにもリスクが大きく、失敗するとゲームの流れが変わってしまい、意外性はあっても、必然性は希薄だからという。

監督が手袋をはめるパフォーマンス

そして1972年7月1日生涯初のホームスチールを敢行しました。この時4年目で最高潮のシーズン。日生球場での午後4時からのゲームで珍しくテレビ中継が入りました。

この頃のパ・リーグは不人気で、西本幸雄監督は福本が塁に出たら、赤い手袋をはめるという哀しいまでのパフォーマンスを行っていました。しかも、本人福本ではなく、監督の西本が手袋をはめるのです。

それほど、パ・リーグはこの頃、観客動員に悪戦苦闘をしていたのです。珍しくテレビ中継が入ると「みんなええかっこしてや」と選手に檄を飛ばしました。

勝利に向って走る

5回2死、福本はライト前にヒットを放ち出塁。スコアは3-3の同点。「勝利に向って走る」前提条件が必要だったのです。次打者の2球目に楽々盗塁を決めると、近鉄のマウンド清俊彦が、ワイルドピッチで、福本は申し訳なさそうに3塁に到達。

この時、福本は初めてベンチの福本に対して「やってやらんかい」と顎をしゃくっているのを見ました。清は右投手で三塁ベースにいる福本とは正対している。そして警戒もしていました。にもかかわらず、スルスルと生涯初のホームスチールを試みました。

真鍋幹三捕手とのクロスプレー。猛然たるホームベースの空気と砂塵の中で、球審の両手が横に広がりました。

まさに千載一遇とはこのことかもしれません。滅多にないテレビ中継の中で見事に、世界の韋駄天、福本豊の生涯唯一のホームスチールが生まれたのですから。

まさに、それは西本監督が天塩にかけて育てた「芸術品でした」。

余談ですが、V9時代のジャイアンツの1番バッター柴田勲は生涯1度もホームスチールを成功していません。

世界記録は1972年、9月26日、西宮球場での南海戦。3回の表2塁上で達成されました。ついに1972年、メジャーリーグのモーリー・ウィルスが打ち立てた、シーズン盗塁最多記録104個を超えたのです。

南海の投手は野崎恆男、キャッチャーは野村克也でした。

現在の世界記録はリッキー・ヘンダーソンの130盗塁ですが、その当時は驚異的な数字でした。

福本豊は盗塁は個人のパフォーマンスではない、あくまでチームの勝利を生むための「プロセス」に過ぎない、だから、勝負に意味の持たない盗塁は意味を持たない。スタンドプレーであってはならない。

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