杉浦忠と言えば私は現役時代の杉浦投手は存じません。一番記憶があるのは、ダイエーホークスの初代監督として、大阪から福岡へ飛行機で移動するシーンが思い浮かびます。そして、そのもの腰の柔らかい口調の解説者。決して批判のしない解説のお爺さん。
立教大学の両雄
杉浦は長嶋茂雄と立教大学のスター。まだ、ドラフトもなく自由競争の時代、長嶋と共に、巨人入りが噂されていましたが、南海に入団。1年目から活躍。前半戦だけで王者西鉄から4勝を挙げました。
下手から投げる快速球派の登場
なんと言っても武器はアンダースローから浮き上がる快速球。下手投げにしては手首が上手投げ投手の様に手首が立ったところから投げ込むストレートは威力満点。
そしていったんボールゾーンから大きく曲がり込んでくるカーブはライオンズの主軸打者、大下弘、中西太、豊田泰光らの猛者を沈黙させました。ストレートとカーブだけで抑え込みました。そう、昔のエースは基本2種類だけしか球種はありませんでした。
![](https://i0.wp.com/baseball-somurie.com/wp-content/uploads/2022/04/250px-Tadashi_Sugiura_1959.jpg?resize=176%2C263&ssl=1)
待望の稲尾和久に投げ勝つ投手が登場したのです。
このルーキーの年、杉浦は27勝12敗、防御率2.05という素晴らしい成績を残し新人王に輝きました。
翌1959年、杉浦は恐るべき投球をみせました。38勝を挙げ、負けはたった4敗。防御率1.40 奪三振は336。371イニングを投げファボールはわずか35個。1試合あたり0.8個しか出さないのだから信じられない。この杉浦の活躍もあり南海は4年ぶりにリーグ優勝を果たしました。
神様稲尾に並ぶ活躍
日本シリーズは巨人との対戦。杉浦は3連投3連勝と投げまくり、右手中指のマメを潰し、血が噴き出るのもかまわずに投げ抜きました。第4戦は雨で流れて、4度杉浦の登板となりました。「マメにボールが当たらないように深く握り、切らずに押し出すように投げ、これがかえって良かった」と語っています。この試合も結局、5安打完封勝ちで、同じルーキーの長嶋は4試合で1打点しか挙げられませんでした。
南海は初の日本一を達成しました。
翌60年も31勝。右腕の血行障害を抱えながらも以降、20勝を2回、通算187勝を挙げる大投手となりました。
血行障害の為、投手としての寿命は短かったのですが、杉浦の放った閃光は絶大でした。