作られた遺恨試合ロッテ対太平洋戦

球史の残る遺恨試合は1973年から1974年にかけてのロッテ対太平洋戦。

しかし、選手同士というよりは、ロッテの監督に就任した金田正一監督と太平洋のファンとの、いざこざが騒動になりました。金網越しとはいえ、金田監督がファンに向けてバットを振り回す異様な光景が日常的に繰り返されました。

金やんのファンサービス

血の気が多い金田監督は、それまでにも球場の汚いヤジにも応戦し、ファンと口論になることがありましたが、これは、金田監督なりのファンサービスであり、平和台球場のファンも分かっていました。

しかし、太平洋が行った記者会見から状況が一変しました。

「金田監督は九州のファンは田舎者で、マナーを知らないと発言した。我々はこれを容認できません。球団としてロッテ球団に厳重に抗議することにしました」

火を着けた太平洋

まさに宣戦布告。6月1日の記者会見後、平和台で初の試合が行われましたが、試合開始前からスタンドは興奮状態。三塁側のベンチ上では金網にファンがへばりつき、「金田、とっとと帰れ!」「博多を舐めるな!」などとヤジる。それに金田監督も怒鳴り返し、ビール瓶が投げ込まれると、砂を掴んで投げ返し応戦。試合が始まっても投石、投瓶で何度も試合が中断。試合後も乱入を警戒し、50人の警官がガードマンと共に配置されましたが、球場の出口にライオンズファンが集まり、ロッテナインは缶詰状態。試合終了2時間後に囚人護送車に乗って宿舎に戻りました。

連日の騒動で試合どころではない

連日同様の状況が続き、さすがの金田監督も疲労困憊。「太平洋は間違っている。ファンはチームが強くなればついてくる。ただ、あおってスタンドを埋めたら駄目なんや」とチクリ。

毎日新聞も、「今回の騒動は多分に演出されたものである」と掲載。多くの関係者もこの新聞の証言のように集客の為に遺恨をあおり立てた事が分かっていました。

翌年もこの、抗争は続き、温厚な太平洋の稲尾監督もロッテ戦にはアグレッシブになり、4月27日には、川崎球場で大乱闘。本塁でのクロスプレーをきっかけに金田監督が太平洋の捕手宮寺勝利を蹴り、そこへビュフォードが金田監督を押し倒す騒ぎとなりました。

しかし、本当に問題になったのは、次の平和台での試合。この乱闘の写真をポスターに使用した事でした。これに起こったのが、度々警備に動員されていた福岡県警。

福岡県警からの異例の警告

「ファンをあおり、トラブルのもとになる、これでは警備に自身が持てない、ロッテとの試合は中止するように」と警告。慌てた太平洋はすぐにポスターを撤去しました。

同様なことが、他カードでも頻繁にみられる様になり、警視庁から両リーグの会長とコミッショナーに、「監督、選手は言動に慎むようにされたい」と異例の警告をしました。

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