日本プロ野球初物語

1934年12月26日(昭和9年)日本初の職業団野球チーム(プロ野球チーム)が誕生しました。

その名前は、大日本東京野球倶楽部で現在の巨人のことです。ジャイアンツと言う名前のニックネームは、翌年に決定しました。初のアメリカ遠征の為に、チームのニックネームが必要となり、当時強かったニューヨーク・ジャイアンツの名前をとってそのままジャイアンツとしました。

選手契約の第一号

選手契約の第一号は、後の西鉄、大洋、ヤクルトで名監督の名をほしいままにした三原修で年給2000円と記録に残っています。当時、公務員の初任給の年給の3倍弱となりますが、そう考えるとあまり高くはありません。

初の公式戦は、1936年4月29日(昭和11年)

渡米している巨人以外の6チームで戦いました。第一回日本職業野球連盟試合大阪大会で記念すべき最初の試合は甲子園球場で行われました。その対戦相手は名古屋対大東京戦で試合開始は午前11時10分。8-5で名古屋が勝利を飾りました。

初の勝利投手は外国人?

勝ち投手は、日本人ではありません、外国人のハーバード・ノースというハワイ出身の27歳外国人でした。先発は牧野潔が打者3人から1アウトも取れずに4人目から登板し、9安打、10四死球ながらも3失点で日本の野球史に名を残しました。このノースは図ぬけた存在ではなく、この年は2勝5敗の成績でわずか1年限りで退団しました。そして、驚くことに捕手も外国人のバッキー・ハリスでした。このハリスは、日本プロ野球初のMVPの輝き、本塁打王も獲得、捕手としても本場アメリカの技術をみせ、創世記における日本プロ野球界の発展に貢献しました。

初の完封は意外な人物

後のミスタータイガースの藤村富美男が達成者。あの物干し竿と呼ばれたホームラン王が投手をして、プロ野球初の完封達成者とは驚きですね。金鯱軍相手に、わずか1安打に抑え、11奪三振、4四球と見事な投球で達成。

初のノーヒットノーランを達成したのはご存じ、沢村栄治。その後、3回達成しましたが、皮肉にも3度応召され、フィリピン沖で戦死しました。

完全試合第一号

昭和25年の青森球場で達成されました。当初先発の予定だった多田文久三がカニの食べ過ぎで猛烈な下痢症状を訴えて急遽先発を任された藤本英雄。前々日札幌での試合のあと、徹夜マージャンをして睡眠時間2時間の中での先発。そんな無茶をして大記録を達成。しかし、この試合記者は4人でカメラマンはゼロ。地元の写真記者もスタンドばかりを写し、この記念すべき試合はグランドを写した写真さえも1枚も残っていません。

しかし、快速球と日本人で初めて投げたと言われるスライダーで打者を斬りきり舞い。

「人生、くよくよしちゃいかん、開き直りも人生には大切だという事を悟りました」

あと一人で完全試合を逃した初の選手

9回2死までパーフェクトを続けながら逃したのが、同じ昭和25年3月16日の田宮謙次郎。後の阪神、大毎の主力打者。

初の1イニング4三振

大洋の木田優が昭和34年に記録。川崎球場での対広島戦。

先頭打者を振り逃げで出すと盗塁を決められ、続く次打者2人を三振に仕留めながら、7番の上田利治にタイムリーヒットを浴び、次打者を三振。4三振を奪いながら1点を献上したまさに怪投。

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