高津臣吾の野球殿堂入り

陽の当たらない男

高津臣吾は投手として、決して図抜けた存在ではありませんでした。その証拠に高校、大学を通じてエースの座に君臨した事はありません。広島工業高校では、背番号の1のエースは甲子園でも4勝を挙げた上田俊治がいて、当の本人は代打で打席に入っただけで甲子園では1度も投げていません。

亜細亜大学時代は、ドラフト会議で最多タイの8球団指名があった小池秀郎がエースで君臨。大学春のシーズンに今もリーグ記録として残る111奪三振を奪ったエースをしりめに、二番で投手の高津は11勝15敗の成績。決して華々しい成績ではありませんが、4年時には春秋リーグ連覇に貢献。ドラフトではくしくも小池の意中の球団、ヤクルトのドラフト3位指名を受けました。

プロ1年目の1991年のシーズンは、1勝に終りましたが、2年目は開幕4戦目の先発し勝利を飾ると、5月中旬までに4連勝。ローテーションに入り、チームの快進撃を支えました。シーズン終盤の10月10日、ヤクルトが14年ぶりの優勝を飾りましたがその輪の中に高津はいませんでした。高知で行われていたファームの黒潮リーグに参加していました。

この歓喜の瞬間に立ち会えなかった口惜しさこそが、金字塔への扉を開ける鍵となったのです。

遅いシンカーを投げなれないか

野村監督から「100キロ前後の遅いシンカーを放れないか」と、勇気も必要ですし、技術的にも難しくて相当研究しました。

この頃ヤクルトにとって、絶対的なストッパーの確率は長年にわたって解決できなかった最重要課題でした。

セーブの記録が公式記録に採用された1974年以降、セ・リーグの6球団の中で20セーブ以上の投手がいなかったのはヤクルトだけでした。

ゴジラ松井にプロ初本塁打を献上

1993年の開幕当初のこの課題を引きずったままでした。

5月2日、東京ドームでの対ジャイアンツ戦。先発の荒木大輔の後を受け、高津は6回のマウンドに上がりました。得点は4-1でヤクルトが3点リード。

9回裏、松井秀喜にプロ初ホームランとなるツーランホームランを献上しましたが、最後は大久保博元をショートゴロに打ち取り、高津に記念すべきプロ入り初セーブが付きました。

その後、中継ぎ登板を重ねながら、12セーブを挙げ、ペナントレース終盤にはストッパーとして定着し、この年は56試合に登板し、日本シリーズでは胴上げ投手の栄誉。二番手が似合っていた男がチームの中で唯一無二の存在になった瞬間でした。

しかし、その後もストッパーの人生が順風万端ではありませんでした。96年まではコンスタントにセーブを重ねていましたが、抑え座を、肩痛から復活した伊藤智仁に明け渡し、中継ぎでの登板が増え、先発も4年ぶりにこなしました。98年はセーブ数がわずか3個となり、敗戦処理、二軍落ちも経験しました。勤続疲労は腰痛、右肘痛となって高津を苦しめました。手術も検討されましたが、リハビリによる治療と肘の周囲にかかるストレスを軽減させる為、下半身を鍛えなおしました。

リリーフ投手への復活

そして1999年からの5年間で平均、32.4個のセーブを記録。2003年4月23日、東京ドームでのジャイアンツ戦、川中基嗣を伝家の宝刀シンカーで空振り三振に獲り230個のセーブを奪取。セーブ数で、ついに日本球界の頂点に立ちました。(その後ドラゴンズ岩瀬仁紀が記録更新)

2022年1月14日のこの日、野球殿堂入りが発表されました。

常に2番手で目立たなかった控え投手が、日米でセーブを重ね、昨年はスワローズを率いて日本一に輝き、栄冠を成しえたのです。

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