若き4番張本勲誕生

張本勲、そう、あの日本テレビ、サンデーモーニングの御意見番でお馴染みの初老と言えばお分かりです。この、張本勲が通算安打の日本記録保持者なのです。日本球界唯一の3000本安打到達者であり事は野球ファンが認識しています。

松木謙治郎との出会い

張本は浪華商業高校時代、高校屈指の長距離砲として脚光を浴びましたが、最後の3年の夏はチームの不祥事に巻き込まれて退部。甲子園の土を踏むことは出来ませんでした。しかし、プロ球団からの評価は高く、巨人を含む複数の球団が獲得に名乗り出ました。結局、東映フライヤーズに入団しました。

早速、その年の秋季キャンプに参加して己の実力を値踏みしました。「自分の力が通用するのかどうか、不安があったが東映の選手と比較しても、かすかにやれるんじゃないかなと思いました、体力んしても、スピード、足の速さ、打球の飛距離にしても」

翌年の1959年の初のキャンプで、張本がかすかな手応えを感じていた手応えは一人のコーチの出会いによって確かな手応えとして変貌を遂げることになりました。

火傷が原因で不自由な右手

このコーチとは松木謙治郎。阪神タイガースの主力打者として活躍、阪神のプレーイングマネージャも務め、1987年に野球殿堂入りしたプロ野球草創の名選手。

その松本に、東映の大川オーナーが指名を出しました。「張本をすぐにゲームに出して欲しい」その言葉こそが張本の打者像を決定づけることになりました。

「すぐにゲームに、ということになればホームランバッターではなく中距離ヒッターということになる、それで中距離打者を目指すことになりました」

それからマンツーマンの特訓が始まりました。ポイントは右手の強化。ただ1点でした。

張本は、幼いころの火傷が原因で不自由でした。右手の力の割合は左手の1割~2割だったのです。高校時代はそれでも通用しましたが、プロでは快打を打つことが出来ない、張本に課せられた練習法は右手のみによるティーバッテイングでした。毎日500から600本松本が投げるボールをひたすら右手だけで叩きました。

「バットが体の1部になるくらいにふり抜きました」

その成果は、左中間、右中間の打球の伸びとなって表れたのです。

中距離打者を目指す

外野手の間をライナーで飛ばして、足の速さを生かして塁打を稼ぐ、打球の角度がよければホームラン。スキのない、相手に嫌がられるパーフェクトな選手になってもらいたいと言われました。

松本打撃コーチが、張本の打者としての特性を見出したのです。

こうしてルーキーの1959年、開幕スタメンに名を連ねた張本は、2試合目で安打を記録。夏場には打率を3割に乗せました。しかし、その3割を維持することが出来ませんでした。

最終成績は124試合に出て打率.275。放ったヒットの数は115本で新人王を獲得。

翌年には打率.336で高卒2年目にして首位打者の勲章。塁打数、長打率はリーグトップで3塁打が10本という目を引く数字。

前年をもってチームを離れていた松木の笑顔が目に浮かびました。

1962年にはMVPを受賞。阪神との日本シリーズでは4番を打ち、12安打の活躍で日本一に輝きました。

松木謙治郎との出会いによって、球史に残る安打製造機が誕生しました。

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