鉄人衣笠祥雄

18年間休み無しの大記録

1970年から足掛け18年間、1試合も休むことなく試合に出場し続けた衣笠をいつからか「鉄人」と呼ばれるようになりました。

メジャーリーグの連続試合記録を保持していた。ルーゲーリックがアイアンフォース(鉄の馬)と呼ばれていましたが、その「鉄」にちなんだ事と、衣笠選手の背番号が28番で横山光輝の「鉄人28号」にちなんでいつしか「鉄人」という称号が付きました。

弱小球団ならではの出場

この鉄人が入団した頃の広島カープは、弱小球団でAクラスに1度も入ったこともなく、ドラフト制度が導入される前年の入団で、超高校級の捕手と評判だった衣笠が、広島カープに入った理由は、その弱い球団だからこそ、ゲームに早く出れるかもしれない、ということでした。

ところが、いざ入団してみるとプロのレベルの高さに驚き、ショックを受け、おまけに準備不足からか最初のキャンプで評判だった右肩を痛めてしまいました。野球以外にも車という趣味にのめり込み、乗り回しては顰蹙をかいました。そこで、当時の長谷川良平監督から、「ユニフォームを脱ぐか、免許証を差し出すか」と、2年目の引退を口にされたのもこの頃。もし、この時に引退していたらこの大記録は誕生しませんでした。

寝業師の根本陸男の功績

転機は根本陸男監督の就任でした。前年からコーチに就任し、寮住まいをしていた根本は毎晩衣笠に付き添い「今、頑張らなければいつ頑張るんだ、野球を失った将来を考えろ」と教育し、意識改革を施しました。

監督主任後は、衣笠を1塁手にコーンバート、山本浩二、三村敏之、など、カープの黄金時代になる若手を積極的に起用し将来の礎を築きました。

衣笠本人も、「試合に出させてもらったのは、広島だったから、将来を見込んで、禅定に目をつぶって起用してくれたのは、根本さんをはじめ、歴代の監督の存在無くして、今の僕はないし、もちろん連続試合し出場の記録もない」

確かに若い頃の衣笠は、ホームランも打つが、打撃が粗く、打率が上がらない、もし、強いチームなら試合に出させてもらえない、広島カープだったからこそ、その記録が出来たのでしょう。

それでもピンチは毎年の様に襲ってきました。初優勝を飾った1975年以降、当時の古葉監督は、それまで、クリーンアップを打っていた衣笠に、1.2番や7番まで打たせ経験をさせていました。意外にも、1976年には盗塁王にもなっているのです。その勉強中の衣笠に試練がやってきました。阪神の三宅秀史の持つ連続試合フルイニング記録を目前に控え、今まで経験していなかったほどの、大スランプに陥りました。ついにスタメンから外れ、連続フルイニング記録が途絶えました。引退すら考えた衣笠でしたが、「お前1人でやってきたのか!」と一喝。チームメイト、歴代の監督、トレーナー、いろんな人の支えで、ここまでやってきた。そういうまわりの人達が、是非、衣笠に記録を作って欲しいと思っているのに、それを自分で簡単に「辞める」と口にしていいわけがありません。衣笠の再挑戦が始まりました。

最大のピンチは骨折

最大のピンチはジャイアンツの西本投手から肩に死球を受け、肩甲骨を骨折した時のこと。しかし、この時も翌日、代打で登場し、3度フルスイングをして三振に倒れましたが、記録は途絶えませんでした。その後も、試合前の練習中に左手の親指を骨折したりと幾度もピンチがありました。

スランプに気持ちが萎えそうになった時は、古葉監督の言葉を思い出し、自分だけでなく、サポートしてくれる人の為に頑張ろうと鞭を入れました。

野球が好きで毎日試合に出続けることが楽しくて仕方がなかった衣笠が積み重ねた数字が、1987年6月13日、あのルーゲーリックの2130試合連続出場の世界記録の更新となりました。

その後も数字を伸ばし2215試合連続出場となり、その記録は、あとにカルリプケンに破られることになりますが、世界一の栄光はいささかも薄まる事はありません。

参考文献 週刊ベースボール50週年yearsⅡ

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