執念を燃やし続けた戦前最後の一投一打

戦争末期、戦局は悪化の一途をたどり、連日空襲を受けても選手やファンは野球を楽しみにしていました。その証拠に、プロ野球の最後の試合は、なんと、日本敗戦の直前の1年前に行われています。

1944年(昭和19年)9月、チーム名も選手も漢字名に変更となり、スコアブックもカタカナ表記は禁止され、漢字の記載が余儀なくされました。急ごしらえに編成された3球団が2回総当たりで対戦。

日本野球総進軍優勝大会が最後

そして、後楽園、甲子園、西宮で計3日間行われ、合計3万2000人ものファンが集まりました。「日本野球総進軍優勝大会」と言う名称で行われた大会が最後ということになっています。

昭和19年11月には、「日本野球報国会」が総力を上げて戦力増強に資するため野球を一時休止するという声明を出しました。

戦局悪化の中での開催

この年、6月にはアメリカ軍がサイパンに上陸し1カ月後には日本守備隊が玉砕。7月には東条英機内角が崩壊し、グアム島守備隊も玉砕。10月には神風特攻隊が出撃するという時期でありました。そう野球どころではなかったのです。

その中で、これでもプロ野球の試合が終息したわけではありませんでした。野球への愛着を捨てきれない関西在住の選手達は、一時復員のメンバーを集めて年末まで試合を続行しています。野球への凄まじい執念は、更に翌年の昭和20年、つまり敗戦の年の元旦から、5日間恒例の、「関西正月大会」が連日ダブルヘッダーで行われているのです。

前年秋、アメリカ軍はフィリピンに上陸、戦艦武蔵が沈没。連合艦隊が崩壊。この年の1月政府は「本土決戦」の戦争大綱を決定した時期です。

命がけの試合開催

日本本土は連日空襲にさらされている中、試合が行われていたのです。スタンドのファンは1日に500人から1000人、途中で空襲警報が出されて中断して、そのまま終わってしまった試合もあります。

昭和20年、1月5日の最終戦最終回の打者は、隼(イーグルス)の8番小暮で、猛虎(タイガース)の呉投手が右飛に打ち取った瞬間が戦前のプロ野球が終焉した「最後の一投一打」となりました。

本土の多くが焦土化する中で、選手達は、最後の最後まで野球に執念を燃やし続けました。

終戦の年にもう野球が開催される

そして職業野球の開催は、なんと終戦の年の晩秋、1945年(昭和20年)11月23日。

第9回東西対抗戦という形で、西宮球場に保管してあった野球道具を運んで、4試合だけ行われたのです。何とか、戦争終了後に生き残った30人の選手達が、終戦で焦土化した本土で、物資が不足する中野球が行われたのです。なんという野球に対する執念でしょう。

この執念の気持ちを次世代に伝えていきたいものです。

参考文献 週刊ベースボール 1997年9月15日号

    コメントを残す

    メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です

    PAGE TOP
    %d人のブロガーが「いいね」をつけました。