前人未踏の張本勲3085安打

1980年5月28日川崎球場

前年、ジャイアンツから移籍し、ロッテの一員になった張本勲は本拠地の川崎球場で阪急の速球王、山口高志から通算3000本安打を達成しました。この記念すべき安打は、ライトスタンド遥か上段のホームランとなりました。しかも、相手はプロ野球を代表する速球王、山口高志から放つ「まさに貴重でプロ野球の歴史に残る一発」

張本の本塁打数は504本ですが、長打率は本塁打王獲得の掛布雅之、永池徳士、門田博光よりも高い数字を残しています。しかも通算打率は王貞治や長嶋茂雄が3割をわずかに超える程度ですが、この張本は3割1分9厘も残しています。(歴代3位)

しかも、俊足で盗塁も通算319個を記録。まさに、打って、走って、守っての3拍子揃ったトリプルスリーを狙える選手でした。

下が張本氏のバット 野球殿堂博物館所蔵

スプレー打法

しかし、何と言ってもこの張本選手の特徴は、スプレー打法と呼ばれる独特の打法にあります。張本以外にこの打ち方、いや似た人も皆無。何しろテークバックをしないのですから。バットを後ろに引く動作は全くありません。トップからいきなりバットが出て来るのです、振り遅れがなく、速球には滅法強かった印象があります。しかも、左投手は全く苦にしませんでした。

私はジャイアンツ時代の記憶しかありませんが、勝負強い打者せした。強打者の王貞治の前に、こんなアベレージを残すバッターがいるのですから投手はたまりません。

しかも、ツボに来たらライトにホームランを放つ。長打はいつもライト方向でした。

昭和51年にはドラゴンズ谷沢健一と最後まで首位打者争いを繰り広げましたが、高打率.358を残しましたが、惜しくもわずか1毛差で届きませんでした。

ジャイアンツ時代はもう、ベテランの域に入っていましたから、レフトの守備はお世辞にも上手くありませんでした。高校時代は投手として注目されるほどでしたが、この頃は肩も衰えていました。

実は張本は、幼少期に右手に大やけどを負い、不自由なまま野球生活を過ごしてきました。グローブも特注の物を使用しています。この怪我の状態は、本人からは一切公表しておらず、あの川上哲治が1度、右手を見せてもらったところ、あまりの状態に絶句したと言います。

若き日の張本勲と高木公男 出典Wikipedia Commons

被爆者の張本勲

本人は、おおやけの場では、発言していませんが幼児期に被爆経験があります。被爆直後に赤い閃光を見て意識を無くしました。意識が戻ると、母親が上に覆いかぶさっていたそうです。(NBP出身者で被爆者健康手帳を持っているのは、この張本勲と農人渉だけ)

最近は、自分が被爆者であることを伝える事が増えました。

それは、「最近の若者が原爆がどこに落ちたか知らない」と言う事を知ったからだそうです。

困難な生活

家は爆風で失い、バラック小屋で貧しい生活をしていました。張本在日韓国人である為に差別も受けてきました。実際に中学時代、高校時代は、喧嘩に明け暮れていました。相手が学生ではなくヤクザの時もあったそうで、もはや喧嘩の域を超えています。

この生活難を忘れるためにバットを振り続けました。

その習慣は、プロに入ってからも変わりません。

キャンプでも、ベッドの横に常にバットを置いていて、思い立ったら素振りをしました。

ロッテ時代にキャンプで同室になった山崎正之は毎晩、寝ているベッドの数10センチ上で張本がバットの素振りをしているので寝なれなくなり「あんな不気味な素振りの音は聞いたことがない」と語っています。

最後のヒットは地味な扱い

張本勲最後の最後の3085本目の安打は1981年8月20日、川崎球場での西武戦。

スタメン出場した6回の裏。森繁和から放ったライト前のタイムリーヒットが現役生活最後のヒットになりました。

不思議なことにこの、通算安打の大事なヒットは、今では映像でお目にかかる事はほとんどありません。3000本安打のホームランはテレビの画像で何度も見た記憶はあるのですが…。

燦然と輝く大記録

サンデーモーニングでの発言でいろいろ物議をかもした張本さんですが、16年連続3割を打ち、251回の猛打賞と500本塁打以上で300以上の盗塁をしたのはこの張本ただ1人。

この記録はNBPの記録として燦然と輝いています。

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