江夏豊のルーキ時代のエピソード

昭和42年4月24日の新聞にて「光った江夏の打撃―中日戦、7点リードを守れず」と言う見出しがありました。

4月23日、金沢兼六園球場での中日戦、1―7とリードされた3回裏、江夏は2番手としてプロ入り3試合目の登板。この回を0に抑えると4回表、2死1塁で打席に立ちました。

高校の時から、打つ方に自信があり4打数4安打を打ったこともある、という江夏は、山中俊丈の投じた球目のストレートを思いっきりスイングするとライト上段に上がった打球は、ライトスタンド場外に消えました。

場外ホームランを放つ

プロ入り2打席目での場外ホームラン。続く5回にも2死2.3塁の場面で江夏はライト前へ逆転のタイムリーヒットを放ち2打数2安打4打点の大活躍。しかし、そのリードも5回に、一枝修平に甘いカーブをホームランにされて同点。その回でマウンドを降りました。

後年に、同じドラゴンズ戦で、延長戦でノーヒットノーランの決着を自らのサヨナラホームランで決着をつけた江夏らしいデビューである。

そして、試合後藤本監督から「お前ピッチャー辞めるか?」と聞いたのもうなずけます。

昭和41年の秋のドラフトで、巨人、阪神、東映、阪急の4球団の1位指名を受け抽選で阪神に入団した江夏でしたが、投手としての素質は速球の威力だけでした。

「高校の時、3回を終わって三振9、四球9と言うこともあった」と言うほどのノーコン。さらにキャンプ中は、「カーブを放ってみい」と言った川崎投手コーチに「カーブ放れないんのです」と答えて、「よくプロに入ってきたな」と大笑いされたエピソードも。

カーブが投げられない

高校の時に監督に「カーブを教えて下さい」と言ったら、いきなりパンチが飛んで来た。

「真っ直ぐでストライクが入らんのに何がカーブや」

カーブを覚えたのが2年目のキャンプで林義一投手コーチから教わったという。2年目からフォームが固まりコントロールも良くなりました。

つまり1年目はそのどちらも身に着けていなかった中で抑え、勝ち星を上げるのだからその凄さが分かります。

徹夜で初完封

江夏はこれで当分出番はないなと思い、毎晩遊び飲み歩きました。プロ入り初完封の時も、ほとんど徹夜、仮眠1時間で達成されました。その後も、6連勝をでテングになっていました、毎晩飲み歩き、62日間勝てなかった。酒浸りで甲子園の駅のホームで何度寝ました。ひどいときは線路を枕にして寝ていたという。

このルーキの年、江夏は12勝13敗、惜しくも新人王は武上四郎に奪われましたが投手として多くのことを学びました。村山実には、「毎晩なんでもいいからメモを書け」金田正一からは「投げる瞬間打者を見ろ」と。この積み重ねが、翌年の25勝、401奪三振に繋がっていきました。

しかし、何とも破天荒なエピソード。大物はやっぱりスケールが違います。

晩年にメジャーに兆戦

そして18年後、西武を自由契約になり、江夏は海を渡ります。2度目のルーキをアメリカで体験することになりました。

「ロッカーで座っていたら、いきなりエンジェルスの連中がどかどか入ってきて、隣に座ったのがレジ―・ジャクソン。その隣にロッド・カル―。あの時はホント、体がキューッと縮んでチビリそうだった」

36歳のルーキーは新天地では大物ではなかった。

参考文献 Namber 218  昭和55年5月5日号 文芸春秋 

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