大野豊のプロデビュー戦は、昭和52年9月4日広島市民球場の対タイガース戦でした。
その年、春の日南キャンプの終盤になって、島根の出雲信用組合からテスト入団に注目した人は誰もいなかったでしょう。その軟式出身の左腕投手は早くも5月に2軍戦で登板し、夏場には1軍が左腕不足という事情もあり、1軍に上がることになりました。
そしてこの日、2-13と言う大差のついた試合の8回に敗戦処理としてマウンドへ。
波乱のデビュー戦
「田舎から後援会の人がたくさん来ていて、羽ばたけ大野」の垂れ幕を振っている。「こりゃあいいとこ見せなくちゃ」と思っていましたが、投げだしたら何が何だか分かりません。マウンドとホームベースの中間くらいでボールがワンバウンドするような始末で、ストライクが入らない。ストライクが入れば真ん中に行って打たれる。唯一のアウトは掛布のサードフライで後は田淵にレフト前にヒットを打たれ、フォアボールを出して、挙句の果てに、後年、広島でバッテイングコーチとなる片岡光宏に満塁ホームランを打たれました。
投球イニング1/3、打者8人に対して被安打5.四球2,失点5。そして新聞には防御率135という天文学的な数字が掲載し騒がれました。これが大野豊の1年目のすべての成績でした。
挫折を味わった1年目
「40分くらいですかね、球場から三條の寮までトボトボ歩いて帰った時のみじめな気持ちは忘れられません」
自分の力はプロでは通用しないんだなって、もうプロの道は絶たれたってそう思いました。
山本一義コーチは「自殺するなよ」と電話をかけたくらいで、相当深刻な顔をしていました。
翌日、「お疲れさん」の一言でファームへ。その年はその後、1軍に上がる機会はありませんでした。まさに散々たるデビュー戦となりました。本人だけでなく「あいつはもう駄目だなと思った人は多かったはず。
着々と成績を伸ばす
しかし、翌年、大野豊はオープン戦で15イニング無失点という好投をみせ、公式戦でもリリーフで3勝1敗の成績を残しました。初勝利は昭和53年8月12日の対ヤクルト戦。キャンプをしていないハンデ、基礎体力の無さを反省し、猛練習をした成果でした。
そしてカープには江夏豊と言う同じ左腕の、格好のお手本がいたことも功を奏しました。
翌54年は5勝。55年は7勝と勝ち星を伸ばし、肩や肘の故障をあったものの、その後は日本を代表する投手に。
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最優秀防御率、最優秀救援投手、沢村賞を獲得し、野球殿堂入りをするなどNBPの歴史に名を残しました。あのデビュー戦から一体誰がこの活躍を予想したことでしょう。
しかし、その原点にあるのは初勝利ではなく、プロ1年目の防御率135点のデビュー戦である。