スーパールーキー木田勇

昭和55年、日本鋼管からドラフトで巨人、日本ハム、大洋の3球団の指名があり、抽選の上、日本ハムに入団。オープン戦が始まると、木田を称賛する活字が次々と紙面に載りました。

「木田、鮮やかな初勝利」

「球も度胸も合格、日本ハム・木田」

「木田、新人王へ最短距離」

当の本人は「前年の年に、社会人から、森繁、松沼、福間等が全日本から入った連中が、入ってそこそこやっていたでしょう?だから自分もやれると思っていたのです。怖いもの知らず、強気一辺倒でした」

「それに、1日中野球だけやっていれば良かったのが嬉しかった、それがプロの実感でした。見るのも、やることが全て新しいし、マウンドに行きのも楽しかった」

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ルーキ史上初の開幕投手か?

オープン戦から好調を維持して、各紙スポーツ新聞もルーキーで史上初の開幕投手か?という報道もありましたが、西武ライオンズとの開幕第2戦に先発。7安打を打たれながらもプロ入り初登板を完投で勝利。

キレのある速球に、大小2種類のカーブ、そして、武器はなんと言っても、植村義信投手コーから教わったパームボール。このボールを駆使して、この初年度はチームの大黒柱として大車輪の活躍をみせました。

22勝8敗4セーブ、防御率2.28、勝率.733厘。投手部門の全タイトル(最優秀救援投手は除く)を独占し新人王。他にもシーズン3度の毎回奪三振、24イニング連続三振、そして後期優勝のかかった試合での9月10月の連投。

そしてNBP史上初の新人王とMVPのダブル受賞となりました。

この年は、ラビットボール、いわゆる「飛ぶボール」と使用し3チームが200本を超える程、投手受難の年の中でのこの成績は驚異的でした。

25歳でのプロ入り

木田は横浜商科大高から日本鋼管へ進み、7年の社会人生活を送りました。プロ入りの時既に25歳。自分自身プロ入りにはリミットの年と考えていました。早くプロ入りしたいという気持ちを弾ませ、少年の様な喜びを生み出しました。

「1年目は投げたくてしょうがなかった、たぶんマウンドに上がっても、生き生きしていました。阪神の田淵にホームランを打たれてもすげーなあ、とか思っても、今度は打たせねーぞと思った。心身共に躍動感があったからあれだけ出来たと思う」

2年目のジンクスから抜け出すことなく…。

ルーキーの年の勝ち星は22勝。そして生涯の勝利数は僅か37勝。「なんであれだけ勝てたか、と思うことがありますよ」と。

「1年目はどのくらい出来るか分からないままやっていた。シーズンが終わってこれでやっていけるな、と気持ちが緩んだことは否定できません。気持ちが甘くなった分、コントロールも甘くなる。それと1年やって「ここは怖いな」とか覚えてコントロールを狙いすぎたのかも」

しかし、不調の原因は誰もつかめないまま、日本ハムから大洋、中日と渡り歩きましたが、結局、ジンクスをずっと破れずに球界を去りました。

参考文献 ナンバー218 5月5日号 文芸春秋発行

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